イジメを受けた幼少期


このころが一番、落ち着きがあったかも(笑)

右手4指欠損という、生まれつき右指が親指しかない状態で、1971年8月6日、大阪市平野区にて生まれる。両親に聞くと当時、貧乏で風呂がなかった我が家は他人に私の手を見られるのがイヤで、私の右手に包帯を巻いて銭湯に通っていたようです。

そんな時代ですから、私も幼稚園では、いじめにも遭いました。 「手ぇなし、手ぇなし」とか、「気持ち悪!」とか…大阪ですから、それくらいのことはあったわけです。なので、無意識ですが小さい時の写真は、右手を隠している写真ばかりです。


車いす生活だった尊敬する父

おまけに、父親が筋ジストロフィーという病気で、私が物心つくころには車イス生活でした。だから、父親が立っている姿を見た記憶がありません。自分も右手が悪いくせに、父親が車イスだというのを友達に知られるのが嫌で、参観や運動会などに父親が来ることを、すごく嫌がっていた記憶があります。ただ、今になると父親は車イス生活ながらも、果敢に仕事にチャレンジする人でして、その姿から、障碍があっても何でもチャレンジすることが大事だということを実地で学んでいたのだと思います。


小さいころの遊びは、野球!

我が家の家計を支えていたのは母親でした。母親の特徴は機転が利くというか、頭の回転の早い人です。小学校2年生のころ、当時としてはハイカラな「スイミングスクール」なるものが、家の近所にできました。友達が通うと聞いた私は、家が貧乏なことも忘れて「お母さん、スイミングスクール通ってもいい?」と聞いたら「あんた、泳げるやん」と一蹴…妙に人を納得させる力のあるガバイ母ちゃんです。

私自身はというと、小さいころから野球が超、超大好きで保育園のときに先生に頼み込んで、運動会のプログラムに野球大会を入れてもらい、自分が活躍できる場を自分で用意していた(笑)変な保育園児でした。ちなみに私は、家から近い幼稚園を落ちたので、遠い保育園に通っていたようです。


このころの写真は野球しかない(笑)

理由は母が言うには「落ち着きがなかった」からのようです…。小さいときは、左利きなこともあり巨人の王貞治選手(756号ホームランを打って「世界の王」になった昭和52年9月3日土曜日、お好み焼きを食べながら家の茶の間でテレビにかじりついて見てました)に憧れ、「将来はプロ野球選手になるんだ!」と思って、毎日、毎日、真っ暗になるまで、近所のお兄ちゃんたちと野球ばっかりやってました。

小さい頃は、夏になると父親の生まれである福井の小浜の田舎で過ごし、川で泳いだり、アユを突いたり、田舎の子とこれまた野球ばかりして、やんちゃ時代を過ごしました。大阪の子ですから落ち着きがない(大阪の人、すみません!)、よく言うとチャキチャキ何でもこなす子だったのでしょう、福井の親戚の1歳年上のケイちゃんからは「ヒロカっちゃんと遊ぶのは、せわしないので嫌や」みたいなことを言われてました。

お先真っ暗な小学生時代


母と手をつないで

そんな落ち着きのない私でも小学生になることに。入学式の日、忘れもしません。入学式が終わると母親が「ヒロくん、行くで!」と強く手を引っ張られて、どこかへ行くではありませんか。私は、子供ながらに母親の背中越しに何かの「覚悟」を感じ取りながら小学校の廊下を歩いていくことに。着いた先は…なんと! 「校長室」。「???」という感じで中に入り、校長先生と何ということもなく雑談をすることに。最後に校長先生が「お母さん、この子、大丈夫やし、普通クラスでいいよな」と言われました。母親は「はい、普通の子と同じように扱ってください!」という会話が行われました。

どうも、障碍を持つ私を特別クラスに入れたほうがよいかどうかという話だったようです。その時、私としては「普通の子と同じように、いやそれ以上に何でも取り組まなあかんねや」と覚悟を決めました。ただ、幼い私はなぜか「普通の子以上にやんちゃにやっていかなきゃ」、みたいな都合のいい解釈でした(笑)。

体育だけが得意なやんちゃだった当時の思い出としては…雨の日に教室の中でドッジボールをして、棚の上に並んでいた、理科の実験用のビーカーをボーリングのピンのように倒し、割りまくってしまったこととか(今でもその光景をまざまざと思い出すことがあります…)授業中、席の後ろの子と話しすぎて、母親が来た参観日に、先生に机ごと後ろに向けられて参観日を過ごしたりとか(家に帰ると母親が“なんで、あんただけ机ごと後ろ向いてたん?”という、豪快な肝っ玉母ちゃんでしたが…笑)。

そんな楽しい!? 小学生時代に、大きな挫折を2つ、味わいました。

まず、小学校2、3年のころ。音楽の授業で、ハーモニカから笛に替わるときのこと。右手の指がないので、笛が出来なかった…。これは、本当にこたえました…小学校入学時に、普通の子と同じようにやろうと決めたことが現実にはできない…学校から帰ってきて自分の部屋に閉じこもり、なんとか笛の穴を6本の指(左手5本+右手1本)でおさえられないかと頑張ったのですが…当然、かなわず親に聞こえないように大泣きしたことを覚えています。小学校の間、クラスの全員が笛を吹く中、自分だけずっとハーモニカを吹くことになってしまい、すごく恥ずかしかったのを強烈な思い出として残っています。後に聞いた話ですが、音楽の先生が「糀谷くんは、ハーモニカをするけど、みんなバカにしたらあかんで」と言ってくれていたようです。それでも、授業で行った曲を1人ずつ発表する時間は特に、こたえました。自分だけハーモニカの音ですから。毎回、やけに緊張して、音がふるえまくっていたことを覚えています…。


小学校4年生時

そして、もう1つは、小学校4年生のある夕ぐれに…野球に挫折したこと。その日も、いつもと同じく友達と野球をやってました。「巨人の篠塚だ!」とか、言いながら流し打ちをしていたのですが、ライトに引っ張ろうと思ったら,,,ビックリしました。右手がバットから離れ、打ったボールは力なくポロポロとライト方向に…。右手がないのだから当然なのですが、自分では本当にビックリしました。正直、脳の回路がパニくりました。小さいときは、みんなもパワーがなかったので良かったのですが、4年生にもなり周りもパワーがついてきたので、右手がない状態では力の限界が見え始めたのです。その瞬間、自分が青ざめてしまったことを覚えています。「あかん、プロ野球選手になれない…」。

そのあと自転車で家に帰ったのですが、どのように帰ったのかあまり覚えていません。その日を境に、私は友達が誘いに来ても野球に一切行かなくなりました。理由は言いませんでしたので、親もなぜ行かなくなったのか心配していましたが、ある日突然、テレビばかり見る「引きこもり小学生」に。あまりにもテレビを見るので、親にテレビを見る制限時間まで設けられたくらいです。

光が見えた!卓球との出会い

そんなテレビっ子になり引きこもっていたある日、親戚の家に遊びに行ったときのことです。親戚のお姉ちゃんと卓球をやることになりました。といっても、その家に卓球のネットがあっただけで、ちゃぶ台の上で、おばさんにネットを手で持ってもらい(笑)卓球をすることになりました。

そのとき…。「おもしろ!!!」と感じました。そして「これなら片手でできるし、五体満足の普通の人と互角に勝負できる!」と感じました。

人間は、なにか希望があれば、がんばれるものだと思いました。大げさに思われるかもしれませんが、自分の人生に光明を見出しました。


卓球にのめり込んだ小学生時代

そして、小学校4年生のときに卓球をはじめることにしました。はじめたのは、父親に連れて行ってもらった障碍者スポーツ施設です。大阪の長居に、長居障碍者スポーツセンターというのが、今もあります。おもしろくておもしろくて、学校が終わったあとにバスに乗って通いました。長居障碍者スポーツセンターの卓球クラブは、基本的には大人の人ばかりで構成されています。そこに入れていただいて、メキメキ強くなっていきました。一緒に全国の障碍者卓球大会に連れて行っていただいて、楽しかったことをよく覚えています。

いまでも長居あたりを通りかかると、「ここで卓球を始めたな」という感慨と、親に持たされた交通費などに充てる5,000円を長居のバス停からスポーツセンター行くまでのちょっとした距離で、落としたことを今でも“鮮明に”思い出します。

やっぱり、落ち着きのない子供でした(笑)。

とんでもない人に出会った中学時代

中学生になって学校の卓球部に入部し、大阪でも有名な選手になりました。全日本卓球選手権カデットの部という全国大会に出場できるまでに上達していました。そのころ、私の1人目の人生の恩師に出会うことになります。


生き方を教えてくださった(故)田中 拓 先生

卓球を始めた長居障碍者スポーツセンターには、中学校に進学してからも通っていたのですが、そこの村田さんというお姉さんが「糀谷君をここで、埋もれさせてはいけない」と思っていただいたようで、知り合いをたどり当時、大阪でも強豪校になりつつあった上宮高校の総監督に見ていただく機会を得ました。その人が、私の恩師、田中 拓(タナカ ヒラク)先生です。卓球界では超有名な方で、世界選手権監督を何度もやられており、名将と言われる方でした。

なぜ、そんな人が高校の総監督などをやっておられたかというと、当時の理事長に何度も何度も頭を下げられ、根負けして総監督を引き受けられていたのです。お会いした第一印象から「生まれてから、こんなオーラを持っている人見たことない…」と思うくらい、強烈な方でした。その人の存在自体が、練習場の空気を一変させてしまう、とんでもない人でした。言うことなすこと、とんでもなかった印象です。

初めて練習に行かせていただいた時には「こんなところにお母さんに付いてきてもらうような奴は、強くはならない」と言われました。心の中で「いや、付いてきてもうたの、村田さんなんやけど…」と思いましたが(笑)、そんなこと言い返せる雰囲気でもなく。障碍があることで、小さい時から親戚一同、やさしい接し方しかされていなかった私に、叱咤激励しか一切行わない(笑)大人が現れたのです。

細かいことは、あまりにも圧倒されてしまい覚えていないのですが、強烈な印象を持ちました。そのときに「いつでも上宮高校に練習に来ていいよ」と言われたこともあり、行くことにしました。中学2年の夏休みでした。「まあ、声掛けてくれたことだし…」みたいな軽い気持ちで、上宮高校の門をくぐりました。朝から行き、まずは補欠の方と試合を行わせてもらい結構、勝てて アドバイスをもらいながら刺激を受けました。

しかし…その横で、とんでもない光景を見ることに! レギュラーのお兄さんたちは、死に物狂いの猛練習をしているのですが、ミスするたびに殴られているのです(うそ、でしょ!?)。 当時の時代背景もあり、社会的にも許容されるわけですが、いやいや、その次元をはるかに超えていました! だって、鼻血とか出てましたもん…。練習場の入り口の下に、鼻血固まってましたもん…。

それを見た私は、直感的に「あかん!ここは、僕なんかが来るところじゃない!」と皮膚感覚で感じ「昼から練習あるんでこれで…」と言って、そそくさと逃げ帰りました。「また、おいでや」と言われましたが「いや、こんなところ、もう2度と来ないでしょ!」と心の中で、雄たけびをあげていました。

あらゆることを叩き込まれた高校時代


高校1年生時

そんなこんなしていたのですが、今度は全国中学校卓球大会に出場できる機会に恵まれたことで、練習する場所もなかったので、また「虎の穴」(笑)に通うことにしました。

そして、3年夏の全国中学校卓球大会も終わり、受験勉強に手をかけ始めたころ…わざわざ田中先生と河野先生(この人は、のちに世界ジュニアの日本代表監督にもなられる、当時は殴るスイングスピードが非常に早い特徴をもつ先生でした(笑)が、じきじきに我が家に来ていただき、上宮高校入学を誘われることになりました。貧乏だった我が家でしたので、待遇面でも配慮するというお話もいただきましたが、私としては親に行きたいとも言い出せず、悶々とした日を過ごすことになります。たぶん、母はすぐに気づいていたのでしょう。

「博和、行きたいんやろ、行ってええで」と声を掛けてもらいました。

自分でも「右手が悪いぼくは、普通の人と同じ仕事とかに就けない。普通の人より鍛えておかなあかん」と小さい時から不安だったのでしょう、「この人のもとで、自分を鍛えたい!」と魔が差して(笑)しまったのです。とうとう覚悟を決めて入学することになりました。笑えない冗談なのは、「上宮高校に入ります!」と先生に連絡した次の日の練習日からいきなり、田中先生に殴られてました(笑)。


毎日夜遅くまで練習していた高校時代。
1日6食くらい食べてました(笑)

後悔はしませんでしたが、まあ、ここでは書けないほど超壮絶な高校3年間を過ごすことになりました。 正月1日から練習することは当たり前でしたが…世の中に、これほど厳しいことはないというものを味あわせていただきました。ボコボコボコボコに殴られる毎日。(最後は、殴られていない日があると「見捨てられたのでは」と不安になる状況でした)

殴られたびっくりするエピソードを1つ。

2年生のインターハイダブルスで全国3位になったときのこと(全国大会の3位ですよ!)。試合が終わった瞬間、後輩が呼びに来て「糀谷さん、先生が体育館の2階で呼んでます。」と…どういうこと!? そこに着くや、すごい勢いでタコ殴り…って、タコでも、そんなに殴られないのではないかと思うほどの勢い。普通の高校生が出会える状況ではないと思います…翌日はシングルスで負け報告に行ったら、いきなりお腹を仮面ライダーキックよりも強烈に蹴られて、体育館の階段で私の後ろにいた人も巻き込まれ、暑い夏に人の雪崩が起きてました(笑)。でも、大丈夫です。


初めての日本代表!(高校3年時、一番右)

その後も、懲りていないので先生に見つからないように、売店の焼きそばを買い食いする元気はありました(笑)。(余談ですが、その買い食いも裏側にあったミズノの屋台にいた先生に見つかることにはなります…)

以前、テレビである有名スポーツ選手が「本当に厳しい先生でいくらお金を積まれても、高校時代には絶対に戻りたくない!」と言われていましたが、私もまったく同感です!。

しかし、人生の基礎を教えていただいたことも、この時代です。間違いありません。だって高校時代に「成功哲学」で有名なナポレオン・ヒルとかに触れてましたから。私が、高校のときに教えていただいたのは卓球ではなく、「生き方」や「あり方」でした。どうやったら、成功するか? どのように努力すべきか? 目標達成とは? 人生で大切なことは? そんなことを骨の髄まで叩き込まれた3年間でした。

猛、猛、猛練習の甲斐もあり、高校3年生のときは、国民体育大会大阪チームとして全国優勝を経験! …というと、華々しいのですが、実はその影でシングルス(個人戦)は、大阪大会2位、近畿大会2位、インターハイ2位…。

2位・2位・2位の大学時代


大学2年生時

その後、早稲田大学に推薦入学し、卓球を続けるも新人戦2位、全日本大学選手権ダブルス2位…と、知人には「シルバーメダリスト」というありがたくない称号までもらうはめに。他人から見れば「すごいじゃない!それって、ただの自慢なの」と思われるかもしれませんが…本人は、めちゃめちゃ悩んでました。「なぜ、優勝できないんだろう? 何がダメなんだろう? 優勝する人間と自分で、どこが違うんだろう」と(今考えれば、これが、能力開発に興味を持ったきっかけではありますが)。

そしてとどめは、大学最後の年の「全日本卓球選手権大会(天皇杯)」。これも、シングルス2位(笑)。このあと、ナショナルチームに選ばれたり、国際大会にも出場したのですが、本当に勝てなくて精神的におかしくなるほどの日々、いや「年月」を過ごすことに…。


大学1年生時代の関東学生リーグ優勝(右下)

シングルスというのは、その日の調子に左右されるもので比較的、集中力の高かった私は「一発勝負の爆発力」で勝ってしまい…。本当の実力がそこまであるわけではないので、その後「全日本2位」というレッテルにほんと~に、苦しい日々を過ごすことになりました。

言い過ぎではないと思いますが、全日本で2位になったことが、ぼくの人生の一番の失敗ではないかと思えるほどでした。 (あまりに悩んでいて…今考えれば、社会人になってからは、軽い「うつ」状態だったと思います)

パチンコや酒もたしなんだ青春時代の大学生活

そう言えば、大学生のころは勝負師だっただけに(笑)ギャンブルも寝る間を惜しんでやってました。パチンコに心をときめかせ、当時の定番である麻雀にもいそしんでました。

当時パチンコは「一発台」というのがあって、釘がビビるくらい張り巡らされて、常識では入らなさそうな難関不落な1か所に球が入ると「ミッション、コンプリート!」みたいな感じで出玉が解放されるというのがありました。集中力を鍛えるために(笑)日夜、努力を重ねるがごとく通ったものです。早朝から、良い台を確保するために、段ボール箱を敷いてパチンコ屋に並んだりとか、我ながら努力の人です(笑)。

練習後の麻雀をしながらの晩御飯で、卓球部メンバーとの友情をはぐくむことも怠りませんでした。東京は地震が多いのですが、地震がちょっとあったくらいでは誰もあわてず、そして避難することもなく、麻雀パイを手でガッチリ抑える鉄壁の防御で勝負をやめません(笑)。友人が住んでいたワンルームマンションでも、コタツで朝方まで麻雀を行うなんてこともよくやってました。


大学の同期と
(当時、早稲田の3羽ガラスと言われてました)

体育会ですから、お酒もよく飲みました。ある合宿中、めちゃくちゃに飲んだのでしょう。朝起きて天井を見上げた時、天井が右に90度以上回り、また元に戻るという漫画みたいな状態にもなりました。おまけになぜか、旅館の障子を掛け布団にして寝ている始末。そして極めつけは…左横を見ると、なぜか受話器が私のほうに向いている…「え!」と思い、その電話線をポツポツとたどっていくと、私の首に3重巻き…夜中に誰かにやられたのでしょうか…。

そのほかにも空気が無くなるほど、狭いカラオケボックスができはじめた時代で、よくカラオケボックスなども行ったものです。

大学時代は、バイトも行っていました。しかし、普通のバイトではありません。「ママさん卓球」、要は主婦の方など、ママさん世代に卓球を教えるというバイトです。2時間教えて、バイト代は破格の5,000円! ありえないですよね。終わってからは、ランチをご馳走になるという貧乏学生としては、この上ない時間でした。この体験も多少、ママさん世代と話すコツを学ばせていただいた貴重な経験です。

大学では、上の学年にいろいろあって…大学3年生、4年生と早稲田大学卓球部始まって以来の2年連続主将(笑)を行わせていただき、いろんなことを学ばせていただきました。早稲田の卓球部は、高校までスポーツばかり行ってきた人と、高校まで勉強ばかり行ってきた人が、混在しています。思想が違う(笑)集団をまとめる役を行わせていただいたことで悩んだことも、たくさんたくさんありましたが、人と人の調整方法やいろんな価値観を認められる素養を見につけることが出来たと思っています。(これも今の仕事に大いに役立っています!)

悶々としていた銀行員時代


天覧試合だった全日本選手権ダブルス決勝(奥側左)
またもや2位、笑

そして、社会人に。卓球で、大企業からもたくさん声を掛けていただいていたのですが、もう少し卓球を続けたかった私は、滋賀県にある社会人卓球部チームのある銀行に就職することに。大学進学時に、両親と約束していたのが「就職は、関西に」ということでしたので、そうすることにしました。

午前中勤務、午後から練習という二足のわらじを履くことに。自分としては、終業時刻まで仕事という道を選択したかったのですが、当時のチーム事情もあり、そのような形になりました。昼までで勤務している支店を後にすることは、なんとなく後ろめたい感じでストレスを感じるものでした。

そのころ、転勤でやってくる支店長に「糀谷は、大丈夫! 大丈夫! 出世する」となぜか、言われていました。言われれば言われるほど不安になり(笑)飲み会などで、よく支店長に絡んで「どういうことなんですか?  支店長!」などとやっていました。いま、考えれば…そのころの私の「あり方」などを見て、言っていただいていたのかな~と今は思えるのですが、このころの私としてはかなり、悶々と悩んでいたことを覚えています。それでなくても右手が悪いことで不安なのに、なにせ、まともに仕事していないのだから、めちゃくちゃ不安な日々を過ごしていました。

30歳くらいまで卓球を続けていましたが、完全にやめるタイミングを失っていました…。
「もっと、ちがうことできるんじゃないだろうか?」「このまま続けていて、いいのだろうか?」「でも、就職させてもらった恩義もあるし」とか、現役生活最後の2年くらいは悶々と悩んでいたと思います。

自分から辞める勇気もなかったのでしょうけれど…まあ、悶々、悶々としてました。

そのころ、銀行経営も苦しい局面を迎え、卓球部が廃部されることになりました。このことは、次の人生を考える機会となったわけです。

廃部が決まった会社からの夜道、考えました。「このまま、銀行員を続けて行きたいかなぁ?」と自分自身に問いました。答えは即決「NO!」でした(笑)。次に思い浮かんだのが「独立しよう!」でした。我ながらずいぶんとせっかち、いや単純です(笑)。そして、「でも…飲食店とか、やるノウハウないしなぁ~(てか、料理できひんし…)。でも…資格を取って、独立なら有り得るかも!」と思い、その足で、大津にあるパルコの本屋さんに向かいました。資格本を1つ1つ見ていき…そして聞いたこともない資格が!「社会保険労務士…なんじゃそりゃ?」そして、そこに「人に関する専門家」と書いてあるではないですか!「これや~」と単純に思い、勉強することに。両立することは、高校からの習慣で得意でしたので、電車の中で猛勉強、会社からの帰りの喫茶店で勉強など、すきま時間を利用して勉強し合格!

独立を決心させてくれた2人目の恩師

合格後は、銀行の中で資格を活かせる「業務推進部」へ異動に。ここは銀行の中枢部門でした。異動するとき、以前の上司に言われたことは「体だけは大事にしろよ。体あってのことだから…本当に気をつけや」って「どんな部署に異動やねん!?」と思いました。実際に異動してみると、本当によく働く人ばかりで、支店で大きな業績を残した優秀な営業マン、元支店長ばかり。おまけにかわいがっていただいた専務も目の前にいる中での仕事でしたので「大企業が、どのように仕事が動いているのか?」「仕事をどのように進めていけばよいのか?」「サラリーマンの世界で出世するとは、どういうことか?」等、本当に勉強になりました。

そのような中、独立したいけど、どうしたものか悩んでいる(また、悩むわけです)ころ2人目の恩師に出会うことになります。義理の父が、なにか怪しげなパンフレットを持ってきて「糀谷君、これ行ったらどう?」と。

そこには「多賀創生塾」と書いてあって、どうも休日である日曜日にわざわざ毎月1回集まって、1年間も人間学なるものを学ぶというものでした。ま~ったく興味なかったのですが…受講する羽目に…。


小田 全宏 先生

その講師が松下政経塾出身の小田全宏(おだ ぜんこう)先生でした。第1回目の講義の日に、本当に最初から帰りたい気持ちで会場に行った私でしたが、ものの5分で大ファンに(笑)。「この人についていこう!」、「この人みたいになりたい!」と思いました。また、私の高校時代からのいろいろな悩み、学びが、小田先生の講義を聞いているうちに、どんどん昇華していくことを感じたのです。まるで、この人に出会うことが運命だったかのような感覚でした。この1年間のプログラムは、自分の人生を冷静に見つめなおす本当に良い機会となりました。そして、この塾が終わるころに、また魔が差して(笑)「よし!独立しよう」と決めていました。

もう失敗したくないと思い起業!

ずっと、小さいころから2位だった私は「もう、そろそろ、2位は嫌だ。おまけにキャプテンとしても、うまくいった覚えがない。今度こそ、経営者という立場でちゃんとしたキャプテンになろう!」と開業しました。

ただ…まさに「カネなし、コネなし、スキルなし!」スタートの開業でした。とりあえず、初日から3日間は、飛び込み訪問からやってみました。銀行時代に営業なんてやったことなかった(というか、仕事もまともにしたことがなかったですから)今考えればよくやったなぁと思いますけど…。何かやらないと気が気でなかったですから、とりあえずやってみたというのが、本当のところです。

今考えますと、これは、本当に良い経験でした。いきなり「社労士捜していたんだ!」みたいな総務部長に出会ったり(これを、ビギナーズラックといいます、笑)、社会保険事務所(役所)の人や保険屋さんと間違われたり…。

特にこの3日間で印象深い出来事があります。ある会社の経営者の方に事務所サービスをご説明していたところ、突然、机をたたかれ…「違うんや! ワシが聞いているのは、どうやったら従業員がやる気の出る賃金制度が出来るか? てことなんや」と怒鳴られました…。これが、当事務所の強みである「賃金制度・評価制度設計サービス」をご提供できるようになった発端です。今考えますと、怒鳴っていただいたこと、本当に感謝です(笑)。

3日間で、100社を超える中小企業に飛び込み、多くの経営者のお話を聞かせていただいたことで、「なるほど、中小企業の実態って、こうなっているんだなぁ」ということが、分かりました。私自身は、従業員数1000人以上のいわゆる、「大企業」に10年近くいたものですから、中小企業の実態が分かったときに軽い脳震盪を起こす感じでした(笑)。「なるほど、こりゃー自分の知っている労務管理の知識は大企業用やなぁ~。中小企業用に加工する必要があるな」と思ったものでした。そして、その後、そのときにお聞きしたお話、お悩みをベースに、中小企業用の人事労務課題解決策を打ち出し、セミナー等で情報発信していきながら、少しずつお客様を増やしていくことが出来ました。

専門知識の研鑽は当然として、経営手法をはじめとする必要な知識も学びながら、開業20年を超える今現在は、200社を超える顧問先のお客様に支えられています。

独立後の私に興味のある方は、「お客が増える」のCDを差し上げますので(無料)そちらをどうぞ!

長文をお読みいただき、まことにありがとうございました!

プロフィール